辛島美登里
小档案 辛島美登里(からしま みどり、1961年5月28日 - )は日本のシンガーソングライター、作曲家。所属事務所はエムエスエンタテインメント。鹿児島県鹿児島市生まれ。鹿児島大学教育学部附属中学校、鹿児島県立鶴丸高等学校、奈良女子大学家政学部卒業。独身。愛称は「ミリちゃん」、「辛島先生」。 小简介 1961年5月28日辛島美登里出生于鹿児島市,父亲是公务员。辛島美登里4岁开始接触钢琴,很许多日本的歌手一样,在小时侯就已经显示出来了音乐的天赋。后来辛島美登里自己开玩笑说就是迷恋钢琴,才会考试不合格的。高中毕业后,由于哥哥的劝说,自己报考了国立奈良女子大学的家政科,不出意外的话,也许辛島美登里会成为一位教师,这也就是为什么后来许多辛島美登里的歌迷昵称她为[辛島先生]的原因。然而大学的生活彻底的改变了辛島美登里的人生选择。 奈良的生活使辛島美登里接触到了流行音乐,而辛島美登里本人最喜欢的是小田和正所在的OFF COURSE乐队。在课余时间中她加入了学校的合唱队,在队里担当了女高音,转折就在大学里出现了,由于自己的音乐天赋和高层次的文学修养,她被学校里的音乐老师看中加以重点培养。1983年即将大学毕业的辛島美登里过关斩将,作为近畿地区的代表参加了雅马哈音乐振兴协会主办的第26届POPCON音乐选拔赛。比赛中自己作词做曲,自弹自唱的[雨の日]获得了优胜奖。委婉的钢琴、透渗淡淡忧伤的歌词再加上清澈高音的演绎,这也是后来所谓[カラバラ](辛島抒情)的特点。 对音乐的执着使得辛島美登里意识到也许音乐工作更加适合自己。于是毕业以后征得了父母的同意,辛島美登里没有回故乡教书,而是独自一人来到了东京学习流行歌曲的创作。1987年辛島美登里作为一位词曲制作人开始了自己真正的音乐活动。接着她为永井真理子创作了一曲「瞳元気」(永井真理子版本作词的是永野椎菜,Two mix的灵魂人物),这首歌曲的热唱使得永井真理子一下子成了日本GIRL POP的佼佼者。说起来有趣的是,许多后来辛島美登里的铁竿歌迷都是通过永井真理子的这首歌知道了解她的。除了永井真理子以外,辛島美登里还为観月ありさ、浅野ゆう子、林原めぐみ等许多歌手提供过歌曲,迅速引起了音乐界的注意。这时的辛島美登里还不算是正式的歌手,只是在为一些动画片的音乐制作中客串唱唱插曲而已。1989年,辛島美登里再次迎来了人生的重大转机,为永井真理子策划编排歌曲的日本著名音乐人金子文枝遇到了辛島美登里,金子文枝一直十分欣赏辛島美登里的才华,弹得一手娴熟钢琴的辛島美登里不仅作词做曲有很高的造诣,而且让金子文枝更加感到惊讶的是她的歌唱天赋,清澈的嗓音尤其适合唱淡淡悲伤的抒情歌曲。金子文枝便劝说辛島美登里自己发专集,可是生性内向的辛島美登里根本就没有这种打算,她还和金子文枝开玩笑说,如果现在的歌手们全都不再唱歌了,也许自己还有机会。话虽然这么说,考虑再三辛島美登里还是决定试试。凭着自己两年来的成功经验和金子文枝的推荐,当时已经28岁的辛島美登里签约了 Fun House唱片公司(题外话,这个公司在日本流行音乐发展上功不可没)。同年,发行了单曲「時間旅行/最後の手紙」,虽然辛島美登里自己对[時間旅行]并不是看好,可是这张出道单曲销量非常的好,这是因为幕后制作人的生活多少有些神秘的色彩,于是大家都非常想直接了解这位音乐才女。1990年辛島美登里发行了单曲「ツバメ」(燕子)和「笑顔を探して」(寻找笑容),这才真正开始了辛島美登里的[辛島流]抒情时代。「ツバメ」一曲中,那种轻快的伴奏和辛島美登里清灵的歌声就象轻舞的燕子一样。人落入爱河会如何,在辛島美登里看来,会变成燕子,因为总是在寻找着温暖的地方过冬。而「笑顔を探して」是漫画「YAWARA!」的主题曲。在黄昏的街道中,仿佛落入了心灵的迷宫。在茫茫人海中寻找的还是那张笑容。辛島美登里的歌曲所描写的人总是在徘徊中,实际上人何尝不会迷茫呢? クリスマスシーズンの定番曲となった「サイレント イヴ」を始めとして自作による、さまざまな恋愛の機微を綴った歌で知られる。メロディーもさることながら、洗練された歌詞に対する評価が非常に高い。辛島の代表作にちなみ、俳人の黛まどかは「辛島聴く」を冬の季語に指定したほどである。1990年代以降、特にOLを中心とした女性のファンをはじめとして、男性のファンも多く現在も幅広い人気を得ている。 以後、コンスタントにアルバムを発売しつづけており、カバーアルバム『Eternal-One』(2001年)のリリースを機に、他の歌手の作品のカバーにも積極的に取り組んでいる。 クリスマスの時期には、毎年クリスマスコンサートを開催し、bunkamuraや東京国際フォーラムでも行っていたが、特に1999年以降は東京芸術劇場(2006年はすみだトリフォニーホール)でオーケストラやゲストと共演する形が定着した。また、コンサートはアルバムリリース前後に東京 大阪 名古屋を中心としたツアーをメインとしていたが、近年は地方でも積極的に公演活動を行っているほか、ピアノコンサートのように、ピアニストと2人だけで行うスタイルのコンサートも行っており、大人数が入るホールだけでなく、数百人規模の小規模ホールやライブハウスなどで行う形式が増えている。 大事件 1961年、鹿児島市で公務員の娘として生まれる。家族は両親と兄。 鹿児島大学教育学部附属中学校卒業後、1年予備校生活を送り、鹿児島県立鶴丸高等学校に進学。同校を卒業後、奈良女子大学家政学部生活経営学科に入学。在学中は寮生活を送りながら、音楽部で活動する。 大学在学中の1983年に、自作の「雨の日」で第26回ヤマハ ポピュラーソングコンテスト(ポプコン)に近畿地区代表で出場、グランプリを獲得。その年の世界歌謡祭にも出場した。この「雨の日」はビクター音楽産業からシングルとして発売されており、厳密にはこの曲がデビュー曲である(ニコニコ動画にて視聴可能)。また、同じく在学中に高校の家庭科教員免許を取得している。 卒業後は上京し、アルバイトをしながら本格的にソングライティングの勉強をする。 1987年、キングレコードからシングル「Midnight Shout」(OVA「魔境外伝レ ディウス」主題歌)でデビュー[1]。この他、当時人気歌手だった永井真理子へ「瞳元気」を楽曲提供したことでも注目された。現在まで、永井真理子以外にも数多くの歌手に楽曲提供している。 1989年、ファンハウスの永井真理子担当だった金子文枝によるプロデュースで、シングル「時間旅行」を発売。公式プロフィールでは、この「時間旅行」がデビュー曲とされている。歌手としての活動はここから本格化した。 1990年、9月下旬にリリースしたシングル「笑顔を探して」(テレビアニメ「YAWARA!」主題歌)、11月上旬にリリースした「サイレント イヴ」(テレビドラマ「クリスマス イヴ」主題歌)が大ヒットし、世間に認知される。サイレント イヴはオリコンチャート1位を獲得したほか、日本ゴールドディスク大賞ベスト5シングル賞を受賞した[2]。この頃はNHK-FM(土曜15:00~18:00「FMリクエストアワー」)やTBSラジオ(日曜23:05~0:00「ニューミュージックマインドポップス」)などでDJもこなしていた。 1993年、事務所をトイズオフィスから、永井真理子も所属していたエムエス アーティスト プロダクツ(MSAP、現在のエムエスエンタテインメント)に移籍。 1995年、レコード会社を東芝EMI(当時)へ移籍。同年発売のシングル「愛すること」(NHKドラマ新銀河「ラスト ラブ」主題歌。1度バーの弾き語りシンガー役として出演した)がロングセラーになる。この曲で同年末の第37回日本レコード大賞作詞賞を受賞。また、通常は新曲を発売直後のアーティストが登場するCOUNT DOWN TVのゲストライブのコーナーに、翌1996年になって異例の登場。 2004年に東芝EMIを離れ、インディーズレーベル、Clover Recordsを立ち上げた。 2005年10月、新たに一時間のラジオ番組「マドンナたちの応援歌」がスタート、同月、2年9ヶ月ぶりのシングル「そばにいたい」をリリースした。 2007年にはソニー ミュージック(SMDR GT music)へ移籍、メジャーレーベルでの活動を再開。