歌手BONNIE PINK的头像

BONNIE PINK

BONNIE PINK(ボニー・ピンク、本名:浅田 香織〔あさだ かおり〕、 1973年4月16日 - )は、日本の女性シンガーソングライター・作詞家・作曲家。  京都市上京区西陣出身[1]。所属マネージメント事務所はタイスケ。所属レコード会社はワーナーミュージック・ジャパン(過去にはポニーキャニオンに所属)。公式ファンクラブ名は「Bonnie Link」である。京都教育大学附属高等学校、大阪教育大学卒業。  芸名は各々の単語の響きと、保守的でない印象の色の「Pink」から考案した。血液型はA型、身長は160~161cm(本人談)。 初期の頃から、英語詞の曲が多い。邦楽における英語詞の是非について、別冊宝島の「音楽誌が書かないJ-POP批評」の執筆者と論争したことがある。  初めて購入した洋楽は小学校6年。マドンナの大ヒットアルバム、『Like A Virgin』(1984年)をジャケ買いしたとNHKの英語でしゃべらナイトにゲスト出演したときに言っている。  高校時代は軽音楽部であり、歌を歌う事は大好きだったが、曲を書いたりして表現者になるつもりは全く無かった。  大学で友達のバンドに参加した事がデビューのきっかけとなった。彼女の歌声は周囲で瞬く間に評判となり、本名(浅田香織)名義でコンピレーションアルバムに2曲参加する。その後、「あれよあれよという間にデビューが決まっていた」(本人談)。  デビュー時は、一生の仕事に出来ると思っていなかった。彼女はミュージシャンとしてアマチュア時代の下積みが全く無いままにデビューしたため「私みたいにちょっとやってみようかなで続くわけが無いと思った」、との事。  作詞作曲のきっかけは、提供された曲に納得がいかず周囲に断った事である。それならば自分で書けば良いと周囲から言われ、見よう見まねで始めた。やってみたら「なんかメロディが出てくる」と自分で気付き、これは面白い作業だと目覚める。  詞と曲を同時進行で作る。曲を作る時は期間を2~3か月とって行い、その期間はほとんど自宅に閉じ篭る。それまでの1年間の旅や人との出会いを思い出して作りこむ。本人曰く、部屋に閉じこもっている時の姿は「鶴が機を織るようなもの」であり他人に見せられるものではないらしい。  篭って一気に作るため、曲はどれも本人にとってはその時の旬である。「産み落としたからには世に出したい」が信条。没曲を作る事が嫌い。こうした作業であるからアルバムぎりぎりの曲数しか書けない。12曲入りのアルバムなら作れたとしても13曲程度。  ピアノもギターも独学で、特にギターは独自の押さえ方でコードを弾いている。ギターを弾く時には,オリジナルなタブ譜をA6の手帳に書いた物を使っている。  初めてギターを手にした時、直ぐに弾ける様になりたかったが、コードが分からず悩む。とりあえず適当に抑えて練習してみたら曲が出来るんじゃないかとそのまま独自の奏法で演奏する様に。コード名は覚えたくないし、枠を作りたくない。セオリーに走ると窮屈になって曲が作れなくなる不安も本人にある。  レコーディングは、スウェーデン、ニューヨーク、ロサンゼルスなどの海外で主に行なっている。  BONNIE PINKのピンクは髪の毛の色とは関係無い。かつては真っ赤のショートヘアーがトレードマークの様になっていたがニューヨーク滞在時に「元々黒なのにどうして真っ赤にしちゃうの?」と周囲に言われボニーピンク然と気負っていた事に気が付きやめた。  以前はBonnie Pink表記で活動していたが、2001年某日から姓名判断により小文字部を全て大文字表記のBONNIE PINKへ。  ピンク色は好き。最初は嫌いであったが、名前にPINKと付けた事もあり、段々好きになった。PINKと付けたのは「発音の破裂音が良かったから」との事。  「BONNIE PINK Tour 2007 "Thinking Out Loud"」の最終公演が、自身初の日本武道館での公演となった。全国ツアー最終日に2008年2月にスウェーデンでCDデビューすることを発表した。  川嶋あい・スガシカオ・スキマスイッチ同様に新曲がリリースすると、全日空の国内線・国際線のスカイオーディオで流れている。過去にBONNIE PINK特集を組み込まれた事もあった。2005年のツアーDVDではメンバーが羽田空港からANA便で移動する様子が撮影されている。